純粋理性批判入門書コース用カンペ 4章
(プレゼンテーションモードでの閲覧を想定)
第4回 自由と道徳を基礎づける
それでも人間に自由はある?
(前回)「ある」とも「ない」とも言えない
しかし、純粋理性批判の終盤で「人間に自由はある」と言い出す
実践する上では、理性は「完全な道徳的世界」という「実践的理念」にもとづいて「~すべし」と命令する
道徳が自由をつくる
自由は「認識」しえないが、「実践」する立場からすれば自由の存在を信じている
「理性による意思決定ができるはず」
他律(ヘテロノミー)と自律(オートノミー)
カントのいう自由は「自律」(主体的に理性的な判断にしたがう)
人間が立脚する二つの世界
人間は「現象界」と「叡智界」の二つの世界に属している
人間の行動は現象界に属しており、認識もできる。自然法則に従うので自由はない。
人間のこころは叡智界に属しており、自由がある。
カントの人間モデル
認識: 感性、悟性、理性の三層
実践: 感性、理性の二層
(単語がかぶっているが意味が違うらしい、ややこしい)
実践の感性は、「~したい」という欲望・感情。(傾向性という)
認識の理性は「理論理性」といい、理念を描き探究する
実践の理性は「実践理性」といい、道徳的行動を命じる
「道徳的世界」の根本ルール
(『人倫の形而上学の基礎づけ』『実践理性批判』の内容も含む)
実践理性の描く道徳的世界=「理性的存在者からなる国家」
いまここでこうなるよう行為しなければならない(このルールを「道徳法則」と呼ぶ)
道徳法則の別の表現
汝の人格の中にも他のすべての人の人格の中にもある人間性を、いつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、というようなふうに行為せよ。
人間を使い捨てるんじゃないぞ
ルールを普遍的なものにする
道徳法則のもっとも有名な表現(『実践理性批判』より)
汝の意志の採用する行動原理(格律)が、つねに同時に普遍的立法の原理としても妥当するように行為せよ。
みんながソレをしたらやばくなるようなことはするなってこと(ぴよぴーよ速報)
理性の究極の関心
カントは、理性の究極の関心が以下の三点に集約されると考えた
①私は何を知りうるか(認識)
②私は何をなすべきか(道徳)
③私は何を望んでよいか(幸福)
しかし道徳的に生きたとしても幸福になるとは限らない
「神」の出番
神の存在は「要請」される
道徳的に生きても報われないかも(「頑張っても無駄。。。」)
そのような中、神への信仰がそれを支えてくれるとカントは述べた
神=叡智界最高の存在。最高善。
実践理性が、神の存在を必要なものとして求める(要請する)らしい
カントが思い描いた理想郷
実践理性批判の結びより(カントの墓碑にも刻まれている)
わたしたしが頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、まずまず新たな賛嘆と畏敬の念が心を満たす二つのものがある。それは我が頭上の星辰をちりばめた天空と、我が内なる道徳法則である。
道徳的に生きるということを、はるかな宇宙と同列においている。
カントの理想「道徳的世界の一員としてふさわしく行為すること」
どんなに貧しくても心正しく生きよ。そこに理性的存在者としての誇りがある。
自分が正しいと判断したことはとことん貫いて生きていけ
カント最大の功績
それは、自然科学と生きる上での価値について、両方を見渡す哲学を築いたところ
科学の信頼性を部分的に保証しつつも、
道徳や人間の「生」のあり方など(科学では示せないこと)の価値を解明する必要性を問いた
昨今のAIの話題にも重要な視点を提供しうる
道徳の理論的考察は可能か
カントの哲学の難点は道徳を議論不可能な領域においてしまった点
合理的に共有できる知をなりうるのは現象界に現れるものだけ。
道徳は叡智界に属する
共有知として哲学を蘇らせる
フッサール: カント哲学の問題点を指摘しつつ、発展させた。
フッサールは現象を拡張
道徳、自由、神も(体験と考えれば)「現象」に属する
→叡智界を想定する必要がなくなり、物自体の世界をなくした=「現象学」
とはいえカントの『純粋理性批判』なくしてはフッサールはなかっただろう
筆者「カント、フッサールから出発して、客観性をもって共有できる知として哲学を蘇らせたい」
THE ENDォォォ!